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『コクリコ坂から』

FC2、管理画面に入るところが異常に重いですね。ここまで頻繁だと、別のところに移りたくなってくる…。

さて、宮崎吾朗監督作品『コクリコ坂から』です。ブログでアニメについてちゃんと書くのは初めてですね。
声とか演技とか作画とかについては語りたい方がたくさんいらっしゃるでしょうから、ネタバレになれない程度に問題点について述べていきます。

最初に、ひとことでいえば秀作でした。
かの『ゲド戦記』をあんなふうにしてしまった監督の作品なので、正直なところ観ようかどうか迷ったんですが、物語としてはかなり質が高かったと思います。

その上で大きく3つの問題点を挙げるなら、
 ① この作品の観客はどこにいるのか
 ② 昭和30年代は本当にノスタルジックに語るべき時代なのか
 ③ 物語の間(ま)のとりかた
…と、いうとことでしょうか。

まず、①について。ジブリ作品はもう、アニメに漬かってる人たちをほとんど相手にしていないんだろうと思います。特に宮崎吾朗監督作品は、作品にちりばめられている要素とか、画面の視点のおき方、演出が、実写作品という感じですね。(むしろ、後述のように、テレビCMに近いかもしれません)ただ、ところどころ、実写でやってしまうと嘘臭くなるだろうと思える部分はあるので、まあ、アニメ向きといえばアニメ向きなんですが。
そう言った意味で、立ち位置としてはやはり高畑勲監督に近いんだろうと思います。その点ではとても興味深かったですし、『ゲド戦記』のような作品よりは、『コクリコ坂から』のような作風のほうが合っているのかな…というのが率直な感想です。
日本では、『白蛇伝』や手塚治虫以来「アニメーション=子供のもの」という枠組みが異常に強固です。特にディズニーを意識して立ちあがったので、仕方ないといえばそうなのですが、ヨーロッパでは「アニメ=大人のもの」。完全に逆です。高畑勲監督の場合、その点はかなり強く意識されているようで、特に、アニメーションといえば「子供に夢を与えるもの」だといった価値観とは、一線を画しているように思います。
この問題はいつかきちんと論じなくてはいけないんですが、少しだけ以前書いた〈魔法少女〉論にエッセンスをいれてあって、「アニメ=子供のもの、オタクのもの」という枠組みに対してはかなり批判的に扱いました。ですから、論文をお送りした方から頂いたメールに、大橋の言っていることは、高畑勲監督がずっとおっしゃっていることだよね…というお返事があったのは、とても嬉しかったですね。
閑話休題。以上を踏まえて、この作品の観客の話です。要するに『コクリコ坂から』は、完全に大人向けの作品です。問題は、それではいったい誰に向けた作品なんだろうか、という点でしょうか。
もしかすると、観客は20代でも厳しいんじゃないかなぁ…。
私はここ数年、明治文学とラノベ、アニメにかまけていて、最近はすっかり昭和文学を放置しています。ただ、いちおう専門が日本の近代文学なものですから、まったくやらないというわけにもいかないわけで、映画に出てきた昭和30年代の風景とか音楽、学術、風俗、演説の雰囲気…などは、もちろん実感は伴っていませんが、いちおう知識として知ってはいます。この作品…たぶん、それでやっと理解できるレベルですよ。単に私が勉強不足なだけかもしれませんが。
ただ少なくとも、20代より下の世代に昭和30年代を知ってる人はほとんどいないでしょうし、たとえば『3丁目の夕日』などで描かれた昭和30年代とはかなり視点が違います。ですから、たぶん私の周りにいた10~20代の人は、あの音楽の使い方や喧騒の起こり方なんかは、まったく異世界というか、理解不能の情景だったんじゃないかと思います。
そういう不可解さを観客に与えてしまうと、その部分にだけ焦点が向いてしまったり、批判が集まってしまったりするんで、他の部分をなかなか見てもらえなくなるんですよね…。どんなに物語としてよくできていても、別のところに目が向いてしまうというのは、非常にもったいないと思います。むしろそういうときは、異世界のファンタジーのような感覚で観ればいいのでしょうか?
ただ、物語のほうにも問題があって、ものすごく古典的なメロドラマなんですよね。これを読み取るコードを持っている観客も、現代ではかなり減っているように思います。ただ、TVアニメ『花咲くいろは』が好評を得ているということを考えれば、もしかすると、こういった枠組みは若い人にとって、むしろ目新しく見えてしまうのかもしれません。
もちろん、宮崎吾朗監督も世代的には作品の風景を実感として持っているわけではないので、たぶん知識として仕入れてファンタジーと同じように描いたんだと思います。(あるいは、企画・脚本にクレジットされていた御方の御力でしょうか?)
その意味では、同時代を生きた方がこの映画をご覧になると、こんなのは昭和30年代と違う! ということになるかもしれません。そこは物語なので、〈現実〉そのものの再現である必要はなくて、〈リアル〉でさえあればいいんですが、問題は、この作品を〈リアル〉に感じて、その上で作中人物に入っていける観客がどれだけいるか、さらに、メロドラマという物語についていける観客がどれだけいるか…ということです。
ですから個人的には、むしろ私より若い人に、この作品を観てどんな感想をもったかということを訊いてみたいというのが、正直なところですね。

その上で、②の問題。これが、もっとも大きなところです。
①の問題ともかかわるのですが、昭和30年代って、「昔はよかった…」的に総体として語っていいんでしょうかね?
たしかに、昭和30年代を生きた世代にとっては、懐かしむべき若い時代なのかもしれません。ただし、これはあくまで個人的な体験としての位相です。昭和30年代を懐かしいと感じる人は、当然その頃は若かったわけです。ですから、たとえば30代の人間がバブル時代を懐かしむような感覚、あるいはそれ以上に、観念として捉えられる昭和30年代を見てしまいます。
一方で、実態としての昭和30年代というのは、特に東京や横浜といった都市が、現代のかたちに形成されつつあった時代でした。基本的には、関東大震災直後の時点で東京の都市計画はおおよそ固まっているんですが、それが実際に進められた時代とも言えるでしょうか。(その点、この映画では、昭和30年代の横浜を非常によく再現していました)
一方でちょっと俗な例を挙げれば、福島県が日本原子力産業会議に加盟したのは1960年です。つまり、電力政策をとして原子力を採用する方向に向きはじめ、福島第一原発がスタートしたのが、まさにこの時期なのです。この他にも、60年安保はイデオロギーとしての問題だけではなく、たとえば〈暴力〉としての安保闘争といった視点で考え直すことは必要ですし、経済的にも、高度経済成長で夢をみていた時代なんていうのはある種の幻想で、実際には、経済的に非常に貧しく、人口に対する犯罪率も非常に高い不安定な社会でした。
そう考えると、映画のパンフレットで宮崎駿が、この時代を「ノスタルジーの中に溶けこんで」おり、だからこそ映画化が可能になったと明言しているのですが、そういった「ノスタルジー」に乗っかるのではなく、むしろこのように「ノスタルジーの中に溶けこんで」しまっている状況こそ、相対化する必要があるように思います。

最後に③ですが、これは簡単に。
要するに、『ゲド戦記』にも見られた宮崎吾朗監督作品のいちばんよくない部分なんですが、「間(ま)」がないんですよ。本当にテレビのCMみたいに、ポンポンと場面が変わってしまう。しかも、場面ごとの尺の長さに変化がないので、テンポは良いんだけれど、物語の起伏は少ない。もっと引き延ばしてゆっくり描いてほしいところで、簡単に済ませてしまう。だから、どの場面を見せたいのか、表現したいのかが伝わらないんで、作品が平板というか、人によってはつまらないと感じてしまう原因になっているかと思います。
別に、淡々と日常を描いた作品が悪いと言っているわけではなくて、それでも、作品にメリハリは必要だろうと。まあでも、噺家でも間のとり方が分かれば一人前といいますからね…その意味では、非常にもったいないというか、残念な作品だったとも言えますが。

さて、色々書きましたが、言いたい放題書くということは、それだけ面白くて、多くの問題点を含んだ作品だということでご容赦ください。
長文失礼しました。
プロフィール

大橋崇行

Author:大橋崇行
文学、ライトノベルなどなどについて、徒然にかいています。
プロフィールの詳細やコンタクトにつきましては、個人HP(→「泉月亭」)をご覧下さい。

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