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『国文学 解釈と鑑賞』休刊

今日は少し、真面目な話です。
興味のない方は読み飛ばしてください。

島村輝先生がご自身のブログで、
『国文学 解釈と鑑賞』(ぎょうせい発行、至文堂。以下、『解釈と鑑賞』)が
休刊になるということを書かれていました。

個人的には驚いたというよりも、
やっぱり来たか…という感覚のほうが強かったです。
どちらかというと、『国文学 解釈と教材の研究』(学燈社、以下『国文学』)が
休刊になったときのほうが、衝撃は大きかったように思います。
『国文学』のほうが『解釈と鑑賞』よりも問題意識が新しかったし、
最近の『解釈と鑑賞』は、特集の組み方にもかなり疑問がありました。

私は、ああいうところに書かせていただけるような身分でもないですし、
正直に言いますと、国文学の世界にいながら、
自分自身、興味のある特集のとき以外は買っていませんでした。
いちおう、毎月図書館で必ず読んではいたんですが、
そういう接し方をしていたせいか、なおさら感慨は薄かったように思います。

さて、ツイッターなどを見ていると、
「国文学が終わった」というような発言をされている方もおられるのですが、
それはちょっと話の位相が違うように思います。

以前、吉見俊哉さんが、日本人は読書をしなくなったのではなく、
堅い本を読まなくなったのだという発言をされたことがあったと思いますが、
どちらかというと、状況としてはそれに近いのではないでしょうか。
文学に興味がある人に向けて雑誌を発行するにして、『解釈と鑑賞』はもう少し堅すぎるのかなと。
だからといって、『ユリイカ』みたいにハルヒを扱えとか、
『超訳/ニーチェの言葉』みたいなことをやれとは言いませんが。

最近は、国文学科に入ってくる学生でも、村上春樹を読んでいればまだいいほうで、
東野圭吾や伊坂幸太郎、西尾維新が好きで入ってくる学生も少なくありませんし、
ライトノベルやアニメーションで卒業論文を書こうという人も多いようです。
というか、今の純文学は読まれないよなあ…と思ったりもしますが、
高校生のときに哲学にはまったとか、現代日本文学全集を端から順番に読んだとか、
学生時代に毎月欠かさず純文学雑誌を買っていたなんていうのは、
私くらいの世代で最後なんじゃないでしょうかね。
文学青年になってみたら、大正時代の「マルクス・ボーイ」とか、
60年代の学生運動の時代とちがって、もう文学青年はモテなくなっていた…みたいな世代です(笑)

それで、そういう今の学生に『解釈と鑑賞』をポンと渡して、
国文学に興味持てよ! と言っても、それは無理というものでしょう。
ただでさえ今の高校生は、古典と漢文がなくても受験できる大学とか推薦・AO入試が増えたおかげで
ほとんど古典なんて勉強していないですし、
教科書に入っている夏目漱石とか森鴎外も読まないで国文学科に来たりしているんですから。

大橋は、ライトノベルとか、アニメーションで論文を書いているクセに
なにを言ってるんだと思われるかたもおられるでしょうが、
最近はむしろ、こういう現状だからこそ、国文学をやっている人間が、
こういうものを敢えて扱っていくことに、少しくらいは意味があるのではないかと思ったりしています。

ラノベとアニメの論文も書いていますが、私のなかでぜったいに譲れないというか、
譲ってはダメだと思っているのは、明治文学の研究を放棄することなんですよね。
その中でも、山田美妙なんていう、それこそ論文を書いたとしても読んで下さるのは
近代文学の先生方のなかでもごくごく一部(数人?)というマニアックな作家を中心に扱っているわけですが、
そういう論文書きとしての修業の場があって、その上でライトノベルやアニメーションを、
日本文学で論文を書いている人間として本気で論じるのでなければ、
ラノベやアニメの論としてもつまらないんじゃないかと思っています。

その意味では、卒業論文の題材にライトノベルとかアニメーションを扱わせて、
大学4年間楽しかったねー♪ というノリで卒業させるというのはどうかなと。
せっかく国文学科入ったんだから、せめて卒論くらいは文学やってみようよ! と、思うんですが。
うーん、考え方が古いのかな…。

一方で、じゃあ自分は明治文学とか、純文学だけをやっていくかというと、
ここまで来たらもうそれは無理ですね(笑)

ライトノベルやアニメのキャラクターについて論文を書いたりすると、
ラノベなんかを論じるよりも、現代の純文学がラノベ化、キャラクター小説化しているという
現象を論じたほうが意味がある…なんていうことを本気で言われたりするのですが、
そういう意見を聞くと、今度は、この人たちって日本の小説の現状をわかってないなあ…と、思ったりしてしまいます。

たしかに、純文学がラノベの方法や表現を使ったりもしていて、ジャンルの越境は起こっているんですが、
両方読んでいれば、やっぱりラノベはあくまでラノベとしての書き方があるし、
純文学には純文学としての書き方がある。だからこそ、表層的な類似点とか、
桜庭一樹や有川浩、乙一、佐藤友哉の越境なんかに安易に飛び付いて論じるのではなくて、
共通性はおさえつつ、ラノベはラノベとして、純文学は純文学として差異化しつつ論じる必要はあるように思います。
かじいたかし『僕の妹は漢字が読める』(HJ文庫)みたいに、ラノベが純文学になったりとか、
『涼宮ハルヒの憂鬱』が数十年後に岩波文庫に入る…なんていうことは、起こりませんよ。

閑話休題。要するに、文学研究の手堅い部分と、日本の物語文化についての柔らかい(?)部分の
両方をやっていく必要があるのかな、というのが、『解釈と鑑賞』の休刊に寄せて思ったことです。

別に文学やってる人間が、ラノベやアニメを扱うべきだなんて思っているわけではありません。
(自分で両方やっていてやっぱりキツいというか、二兎追うものは…ということを考えたりすることもあるのですが、
念のためにフォローをしておくと、個人的には、ラノベをやることで明治文学についての見方が変わったり、
明治文学をやってラノベについて考えるときに新しいアイディアが浮かぶこともあるように思います。)
ただ、『解釈と鑑賞』のように文学研究の枠組みのなか論じるのは学会のなかでやって、
商業ベースでは、もう少し別の方向性から文学を扱うことが求められているというのが、
国文学をめぐる現状なのでしょうか。

明治期以来、日本人は外国語や外国文化を学べば国際人になれるという思い込みが非常に強いのですが、
勤務先の関係で日々、帰国生や外国籍の生徒たちに囲まれて生活をしているとつくづく思うのは、
日本語圏以外の文化をもっている人と対話するためにもっとも必要なのは、自分自身について、
もっといえば、自分たちが話している言葉にまつわる文化について語る教養と言葉です。
そもそも、自文化でないものをどんなに理解しようとしても限界はあるし、どこかに誤解は生じるわけで、
だったらむしろ、自分たちがいったいどういう枠組みの中で生きているかについて語ったほうが、
うんと実りのある対話ができるように思います。外国語なんて必要最低限で十分。
たしかに90年代以降、ナショナルな単位で文学を考えるのは非常に難しくなりましたし、
私自身、明治文学にしてもライトノベルにしても、「日本の」ものだとはほとんど意識しないでやっています。
けれども、そういう裾野を確保するという意味でも、国文学にはまだまだ果たすべき役割があるように思います。

ブログの文体で書くと、どういうわけかなんだかエラそうな言い方になってしまうのですが、
そういうつもりはまったくないです。読んで不快になられた方、ご容赦下さい。

乱文、失礼いたしました。
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大橋崇行

Author:大橋崇行
文学、ライトノベルなどなどについて、徒然にかいています。
プロフィールの詳細やコンタクトにつきましては、個人HP(→「泉月亭」)をご覧下さい。

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