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大橋流現代文 ~オツベル帝国の興亡2~

先日書きました、宮沢賢治「オツベルと象」の討議編をお伝えします。
(イントロダクションについては、6月2日の記事をご覧下さい)

3クラスで授業をやったのですが、こういう授業はどこまで自分から話してしまいたいのを我慢するかだよなぁ…と、つくづく。
生徒から意見がなかなか出てこないときに、こちらから説明してしまえば楽なんですが、
それをやってしまうと生徒の思考が止まってしまうわけです。

マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」みたいにモラルジレンマがはっきりと出ている問題提起なら意見がでやすいんですが、
あのやり方は、参加者の側が問題点を引き出す余地が狭いんですよね。

マスコミの人たちは、言説をある程度単純化させるのも仕事なので、新聞とかテレビではああいう議論が受けるんでしょうが、
いくら下っ端とはいえ論文を書いている身としては、問題意識があらかじめ限定されるという思考は致命的な欠陥なわけです。
だから、思考の訓練としては熱血教室のやり方はありなんですが、手放しで称賛するというのは、逆に危険な感じがしますね。
「考える」というのはそんなに単純じゃない、というか、もし学生があのやり方を「考える」という行為だと受っていたとしたら、それはかなり問題があるわけです。

さて、「オツベルと象」です。

だいたいどこのクラスでも最初にあがったのは、「オツベルが独裁者だ」という意見でした。
たしかに、「オツベルを国家に置き換えたらどのような特徴があるか」という問題設定なので、これは出てくるよなあ…と思いました。
けれども「独裁」というのは、国家が置かれうるあるひとつの状況を指すわけで、「国家」としての「特徴」そのものではありません。

そこで当然、オツベルはなぜそのような状況になったのかな? …という質問をすることになるのですが、
それは本文でオツベルが「頭がよくてえらいためだ」と書かれていると、生徒が指摘してくれます。
このあたりは、さすがに高校生ですね。

ここからが本題というか、本当の勝負です。
この「頭がよくてえらいためだ」という表現は、この小説における権力構造のうち、かなり重要な問題に接近していると思います。
つまり、「頭がよ」いというのがなぜ「えらい」という言葉、この小説でオツベルが持った「権力」に結びついてしまうのか、ということです。

生徒に身近な話では、生徒会長や学級委員長の選出でしょうか。
どういうわけか、成績のいい優等生がそういう仕事を押しつけられる(笑)
そんな話をしていたら、「ウチの学校は候補者の人脈だよー」と生徒に真顔で言われて、
思わず「日本型選挙かっ!」とツッコミをいれてしまいました。
でも、中学のときはどうだったかと聞くと、やっぱり成績の良い奴が選ばれてた…とのことです。

それから、少し遠いところでは、日本の官僚制度や、中国の科挙制度でしょう。
つまり、「頭がよ」い人が「えらい」という状況におかれる、という問題には、オツベルとその周辺の人々や象とのあいだにある権力制度(システム)の問題があるわけです。
ここは、もう少し時間があれば、もっと突っ込みたかったですね。
一方、ここで「頭がよ」いとされているのがどういう内容を持っているのかという、概念の問題に入っていったクラスもありました。
これは、国語の授業としては嬉しいところですね。

その他に挙げられたオツベルの「国家」としての特徴としては、
オツベルが白象を働かせるときに「税金」が高いからという言葉を持ち出す問題や、
オツベルが白象を「鎖」でつなぐという問題が、やはり出てきました。

オツベルが「国家」だとすれば、国家の統制下に組み込まれた象を「鎖」でつなぐということは、
「国家」が人民を自国の中に居住させておく力ということに置き換えられます。
特にウチの学校は帰国生が多いので、パスポートやビザというのが、どのような権力からできあがっているかという問題は、
かなり身近なこととして考えられたようです。

けれども、その中で特に盛り上がったのは、
「オツベルを国家に見立てるとしたら、象はどういう存在なのか」
「象たちがオツベルに仕掛けたのはどういう闘いだったのか」という話題でした。
これは少し本題とずれるのですが、面白いところを突いていると思います。

ネットで「オツベルと象」という作品を検索すると、必ず出てくるのが「かわいい象さんの復讐劇」というコピーなんですが、
白象を助けるために他の象たちが立ち上がるという物語を「復讐」と規定していいのか、というのはかなり問題があります。
このコピーについてちらっと話をしていたので、生徒がそこから考えたのかもしれません。

たとえば、オツベルを資本家・強大な権力者ととると、象たちが起こしたのを「革命」とつい呼びたくなるのですが、それは違う!と生徒の弁。
つまり、「革命」というのは国家の内部で支配されている者が起こすものなので、象たちが起こしたのは対外戦争であって「革命」ではないというのです。
話はさらに、オツベルを「国家」、白象を「植民地」、他の象たちを「連合国」と置き換えると、この構図って完全に太平洋戦争の日本・朝鮮(中国)・連合国の関係だよね!ということになり、
象さんたちの攻撃に正当性があったのか? ある意味でオツベルは被害者なのではないか…という方向に進んでいきました。

ここまでいくと象徴論であり、根拠のない構造論にもなりかねないのですが、今回はそもそも問題設定が象徴論だからいいか…とその話に乗ってみたところ、
植民地とはなにか、国家が植民地をもつとはどういうことか、というポストコロニアル批評みたいな議論になったので、作品からはやや離れてしまいましたが、かえって興味深かったです。

私の授業のアバウトさがうまく機能すると、授業がときどきこういう方向に向かってくれます。
論文を書くときや、テストの問題を解くときには、分析対象になるテクストから離れてしまうとまずいのですが、
現代文の授業の目的を「考える」ということに置くときは、むしろこれくらいのほうがいいのではないかというのが、最近考えているところです。
このあたりは、意見が分かれるところですね。

次回は、萱野稔人の「国家」論なので、いよいよ本題です。
個人的には、萱野さんの「国家権力の源泉は暴力の行使にある」という考え方には反論があるのですが…どうなるでしょうか。
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プロフィール

大橋崇行

Author:大橋崇行
文学、ライトノベルなどなどについて、徒然にかいています。
プロフィールの詳細やコンタクトにつきましては、個人HP(→「泉月亭」)をご覧下さい。

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