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細田守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』

 またずいぶん久しぶりの更新になってしまいました。申し訳ありません!

 さて、今日はタイトルの通りです。
 いつも、研究はやるけれど評論はやらない! と言い張っているのですが、今日映画を観てあまりに衝撃を受けてしまいましたので、たまにはという感じでしょうか。
 以下、注意点です。
① 公開されたばかりの作品なので、できるだけネタばれにならないよう細心の注意を払ってはおります。ですが、気になるという方はぜひ先に本編のほうをご覧下さい。絶対に損はしないと思います。
② 少し真面目に書いたので、文体を変えてあります。いつもの論文よりやたらに強気なのは、どうも評論的なものを書くとこうなってしまうらしいのです…(私が評論をやらない理由の一つでもあります)
③ それから、長いです(笑) 長文が苦手な方は、華麗にスルーして下さい。

 それでは、もしよろしければ続きをどうぞ↓
強いヒロインとアニメ「キャラ」のゆくえ ―細田守『おおかみこどもの雨と雪』
                                大橋崇行

 細田守が描く女性は、強い。『時をかける少女』の紺野真琴も、『サマーウォーズ』の篠原夏希も、そして一躍脚光を浴びることになった『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』第40話「どれみと魔女をやめた魔女」の未来も。そして、3年ぶりの新作となる『おおかみこどもの雨と雪』でも、きっとそうなのだろうと思っていた。キービジュアル(図)として早くから出ていた、ヒロインの花が自身の子供である雨と雪とを両手に抱える貞本義行のイラスト。見る側を正面から見据えるその視線には、まっすぐで意志を持った、力強い母親としての姿が感じられる。その意味でこの作品は、細田守が描き続けてきた女性ヒロイン像の系譜に位置する一作品だろう。そういう予想のもとで、本編を見た。
おおかみ
         (図、劇場版パンフレット表紙)
 結果から先に述べれば、この予想は半分当たっており、半分は間違っていたように思う。たしかに、花は強い女性だ。けれどもその強さは、これまでの細田守作品で描かれてきたヒロインとは、明らかに異質なものだったように思えるのである。
 細田守作品の最大の強みは、「人間」を描こうとするベクトルを強く持っていることだ。これは、かつて宮崎駿が庵野秀明に向かって与えた批判とも関わるのだが、私見を率直に述べるなら、私は宮崎駿も決して「人間」を描くことはできてこなかったように思う。宮崎駿も、庵野秀明も、結局描いてきたのは「キャラ」だったのだ。
 これは日本のアニメーションが、『白蛇伝』以来どうしても越えられなかった壁ともいえる。ディズニーアニメを範としてアニメーションを子供向けの媒体として編成してしまったとき、作中人物を「設定」と「世界観」とによって構造化していくという方法は、日本のアニメーションの作り手たちをほとんど無意識的に規制してきた。この流れに抗しようとし、「キャラ」ではなく「人間」を描くことを追求してきたのが、高畑勲だった。その意味で細田守は、作品の系譜としては高畑の側により近い。
 この両者の差異は、宮崎駿と高畑勲を「スタジオジブリ」という枠で大きく括ってしまう氷川竜介などに、致命的に欠けている視点でもある(注)。その意味でアニメーションの世界は、作り手の側、批評する側とも、「キャラ」の呪縛からは逃れることができていない。つまり氷川が論じているのは、「人間」に近い「キャラ」をアニメがいかに描いてきたかという位相であり、アニメが本当に「人間」を描いてきたかという視点ではないのである。
 ただ、高畑勲の系譜に「近い」という表現を敢えてしたのは、『時をかける少女』にしろ『サマーウォーズ』しろ、私自身も、氷川が論じているような枠組みで十分に細田守作品を読み解けると思ってきたためである。つまり、紺野真琴も、篠原夏希も、あくまで「人間」に近い「キャラ」として描かれていた。
 その大きな要因の一つは、これらのヒロインが10代の少女だったことである。なぜなら、日本のアニメーションがこれまで描いてきたのは、少なからぬ大部分が、この年代から、それより少し下の年代までの少女だった。つまり、アニメーションで少女期にある年代のヒロインを描こうとした瞬間、アニメーションがこれまで培ってきた文法と様式が、その中に入り込んでしまう。ほんのわずかな動き、しぐさ、言葉……どんなに「人間」を描こうとしても、その中に「キャラ」が迷い込んでしまうのである。
 この呪縛を、細田守は実に簡単な発想で乗り越えた。それは、『おおかみこどもの雨と雪』で、ヒロインとして、20代から30代にかけてひとりの母親として成長していく女性を据えたのである。ほんの些細なことに見えるかもしれないが、アニメーションとその近接ジャンルの世界でこのことが持つ意味はきわめて大きい。
 もちろんこの年代の女性を描いたアニメーションは、絶対数は少ないが、ないわけではない。「おねーさん」という「キャラ」や、「母親」という「キャラ」もアニメーションの世界には多く存在するから、その文脈が入り込んでしまう可能性もなかったわけではない。けれども、13年という歳月を2時間という映画の尺に収めるという作業で、この要素がみごとに削り取られていった。
 もちろん、アニメーション独特の表現は随所に織り込まれているし、細田守作品では見せ場となるシーンに敢えてアニメーションの文法なり様式を持ち込むという演出をする。だが、こと人間ドラマに関する部分では、ひとりの女性を描くという位置に徹底して立ったのが、『おおかみこどもの雨と雪』における花だったのである。
 この点については、同じ年代の女性を描いたアニメ以外にも、マンガやラノベ、小説を並べて精査し、分析する必要がある。この作業は、もし本稿を論文の形にする機会があったらやりたいと思っているのだが、少なくとも『おおかみこどもの雨と雪』のヒロインである花は、「人間」だった。人物の絵にあえて影をつけないという二次元的な描き方と、細かい動きや言葉の中で「キャラ」としてではなく「人間」として作中人物を描いていくという方向性の融合が、この作品では達成されていたのである。またここには、花を演じた宮崎あおいの秀逸な演技も無視できないだろう。
 一方でこのような女性をヒロインに据えたことは、日本のアニメーションという媒体にとって、さらに大きな意味を持つ。なぜなら、「キャラ」として描いた10代のヒロインから離脱するということは、日本のアニメーションが『白蛇伝』以来持ってきた枠組み、すなわち、「アニメは子供(とオタク)のためのものである」という枠組みに対する、痛烈な挑戦状としての機能も果たすからである。
 たとえばライトノベルを書くとき、企画書段階で大学生や大人の女性をヒロインにした作品を編集部に持ち込んでも、高校生に直すように言われたり、企画そのものを拒否されたりすることは少なくないようである。なぜなら、「キャラ」という認知コードを読者と作り手との間で共有するためには、10代の少女であることが一つの要件となっているためだ。それだけ、漫画、アニメ、ラノベと密接に関わっている業界で、「キャラ」の規制力は強い。
 細田守がそこから離脱できたのは、『時をかける少女』『サマーウォーズ』を経て確実に観客を得られる位置まで来たために、作品の自由度が増しているという外的な要因も考えられる。けれども、そういう状況で敢えて少女をヒロインに据えることから離れた点にこそ、『崖の上のポニョ』で結局は母親のリサではなくその子供の宗介とポニョを中心に据えてしまった宮崎駿との、決定的な断絶がある。同時に、10代の少女と20代後半の女性とを往還する『おもひでぽろぽろ』で、高畑勲が(当時としての)現代人女性をアニメーションに蘇らせようとしたことに連なる文脈を、細田守は獲得したのである。
 それでは、高畑勲と細田守のあいだにある差異は何か。一言で言えばそれは、作品が持つ〈物語〉としての強度である。細田守は高畑勲よりも、〈物語〉に対する信頼感が圧倒的に強い。これは、四十代以下の世代にいる作家などとも、共有されている問題である。〈物語〉への回帰と表現してもよい。
 たとえば柄谷行人や大塚英志、東浩紀などは、「自然主義」を〈描写〉の観点で考えようという、50年も昔の文学観を未だに持ち続けているように思える。だが、「自然主義」とそこから連なる「私小説」が持つ最大の問題点は、〈物語〉として〈始まり〉と〈終わり〉とを構造化することに対する拒否ということにあったと言ってよい。すなわち、人生のある一定の時間を切り取れば、それで一つの創作物として成立するという発想があったのである。
 これは「自然主義」以前、特に明治期の小説に対する反駁でもあったが、同時に、〈物語〉がどうしても持ってしまう嘘くささ、「作りもの」らしさに対する抵抗であったともいえる。「作りもの」ではなく〈現実〉であり〈真〉であることが、ひとつの価値を持ち得たのである。
 一方でこのように描かれる〈真〉は、他者に通じる表象にしてしまった瞬間、どうしても〈真〉でなくなってしまうという逆説を持つ。言葉にしろ絵画にしろ、作り手が発信しようとするコード(要素)と、読み手が受信してしまうコードとはどうしても乖離するし、乖離してしまった瞬間、それは作り手にとって必ずしも〈真〉ではなくなってしまう。モダニズムの系譜にあった作品の最大の見落としがここにある。
 このような1980年代までの作品に対し、たとえば村上春樹や笙野頼子、あるいはつい先日芥川賞を受賞した鹿島田真希などの小説などに典型的に示されるように、それ以降の日本現代文学の最大の発見は、〈物語〉であってもその中に「人間」を置くことができる創作システムを、特に南米文学への傾倒を端緒として獲得してきたことにあった。これは文学に限った現象ではない。そのため以前から「ライトノベル研究会」でも、小説、マンガ、アニメ、ライトノベル、映画、テレビドラマ、ゲーム……と多メディア化している現代文化がそれぞれのメディアごとの論考に終始してしまっているという現状に対して、これらを現代の「物語文化」として再編成し、メディアミックスという現象そのものを包括的に扱っていく必要性ということを問題としている。そして細田守は、まさにそれを獲得したあと、〈物語〉回帰の時代に誕生した作り手である。それが細田作品のエンタテインメント性の根拠になっているわけだが、同時に、高畑勲作品との大きな境界線となっているように思える。
 まだ公開されたばかりの作品であるため、作中の具体的な台詞や場面を引用して論じることは避けた。だが、『おおかみこどもの雨と雪』という「事件」について考える上で、以上のことをひとつの視座として提起しておきたい。少なくともこの作品が、日本のアニメーション史における一つの転換点となるのは、間違いないように思えるのである。

注 氷川竜介「「人生そのもの」を描きぬいたアニメーション映画の誕生」(『おおかみこどもの雨と雪』劇場版パンフレット) 

追記 乱文にて失礼しました。
ただひとつ気になるのは、『おおかみこどもの雨と雪』をジェンダー論関係者がどう読むかでしょうか。雪の成長物語として読むと完全に今江祥智「どろんこ祭り」の文脈で描かれているので、激怒するお姉様方が多いかもしれませんね。
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非公開コメント

細田さん、やっぱり生真面目なんだ

すみません、見る前に饒舌さに負けて読んでしまいました。

結論、見に行こうという事で、休みのときにでも行ってきたいと思います。
しかし、細田さんは理詰めの方なのかも知れませんね。
相当追い込んできた感じがします。
こりゃ、ジブリの様で、ジブリじゃないです。

ところで、細田さん自身の解説をする記事を見つけたので、読んでみました。
王道を進む、没頭すればとてつもない仕事をする、なにより真面目。
http://www.birthday-energy.co.jp/

真面目、真面目なんですね。
これはますます見に行かないと・・・。

Re: 細田さん、やっぱり生真面目なんだ

> すみません、見る前に饒舌さに負けて読んでしまいました。
>
> 結論、見に行こうという事で、休みのときにでも行ってきたいと思います。
> しかし、細田さんは理詰めの方なのかも知れませんね。
> 相当追い込んできた感じがします。
> こりゃ、ジブリの様で、ジブリじゃないです。
>
> ところで、細田さん自身の解説をする記事を見つけたので、読んでみました。
> 王道を進む、没頭すればとてつもない仕事をする、なにより真面目。
> http://www.birthday-energy.co.jp/
>
> 真面目、真面目なんですね。
> これはますます見に行かないと・・・。

コメントありがとうございます。
また、記事のご紹介もありがとうございました。
重ねて御礼申し上げます。

ジブリと比較すること自体の是非も問題だということは、
重々承知しているつもりですが、
その点も含めての問題提起といったところでしょうか。

No title

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

Re: No title

> とても魅力的な記事でした!!
> また遊びに来ます!!
> ありがとうございます。。

コメントありがとうございます。
ブログの更新が滞っており、申し訳ございません。

またよろしくお願い申し上げます。
プロフィール

大橋崇行

Author:大橋崇行
文学、ライトノベルなどなどについて、徒然にかいています。
プロフィールの詳細やコンタクトにつきましては、個人HP(→「泉月亭」)をご覧下さい。

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