スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

谷郁雄『どれも特別な一日』

 ご無沙汰しております。
 来年春以降に出るぼこぼこ出る単著やら共著やらの単行本の仕事が次々に襲ってきて、スケジュール的に死にそうになっていました。
 やっとブログを書く(ブログに逃げるとも言う)くらいの余裕ができた…という感じです。
 こちらについての詳細な情報は、2月半ばくらいから少しずつ出していけるかと思いますので(…はず)、今しばらくお待ちください。

 さて、最近はすっかり献本して頂いた本の感想ブログみたいになっていますが、
 今回は谷郁雄さん著、後藤グミさん絵の『どれも特別な一日』(雷鳥社、2012.12)です。

 実は、お二方とはまったく面識がなく、編集者の方から頂いた本。
 谷郁雄さんは、リリー・フランキーさんが写真を撮られていた『無用のかがやき』を覗いたことがあったなあ…とか、後藤グミさんといえばEテレの『できたできたできた』だよなあ、とか…本当にそれくらいしか存じ上げなかったので大変恐縮なのですが、その分だけ率直な感想が書けるかな、とも思います(笑)

 少々長い上、真面目に書くと文体が変わるというのが本ブログのお約束…ということで、興味あおありの方は、続きをお読みくださいましたら幸いです。
 やはり詩は、どんなに読んでも根拠が希薄なので難しいですね…もしかしたら、作者の谷郁雄さんには、全然違うと怒られてしまうかもしれませんが。ひとつの読みとして、ご容赦ください。

 2012年の更新は、今回が最後になるかと存じます。
 今年一年、どうもありがとうございました。
 また来年も、よろしくお願いいたします。
 それでは、よいお年を!

谷郁雄・詩/後藤グミ・絵『どれも特別な一日』(雷鳥社)

1 本の装丁にこだわるということ
 石橋忍月が明治20年代に書いた書評を読んでいると、ときおり本の装丁についての評価から始まっていることがある。表紙や挿絵がどういう出来かを評した上で、本文のほうに入っていく。当時、読者に本を薦めるためには、内容よりもまず本の外形を紹介しなくてはいけなかったのである。
 このことは、明治20年代において、本がまず第一に、市場に流通する「モノ」として捉えられていたことを示している。同時に、本を買うという行為が、非常に贅沢なものだったことを窺わせている。
 この前提としては、江戸期から明治期にかけて刊行されていた本が、かなり高価なものだったということを念頭におかなくてはならない。
 たとえば、明治20年代の半ばになると、雑誌『国民之友』に収められた文学作品を収める叢書『国民小説』は、非常に安価なことで話題となった。文字ばかりの味気ない装丁に、数点の挿画だけが入る。その分だけ値段が安くなり、流通量も増える。活字メディア隆盛の始まりである。この作り方を引き継いで一時代を築いたのが、「出版帝国」博文館だった。この時点で確実に、本というメディアは、装丁よりも本文の内容を前景化させる形で受容するものとして組み替えられてしまったのである。
 これに対し、忍月より前の時代は、まったく状況が異なっていた。たとえば「合巻」のような絵本は、地方から江戸にやってきた上京者にとっては地方に戻る際の土産品であり、江戸の庶民にとってはなかなか買うことができないため、貸本屋で借りて読むものだった。石橋忍月には、この感覚がまだ根強く残っていたのではなかったか。装丁のいい本で「本箱」を彩り、ときおりその中から出しては、美術品のように本を鑑賞する。作り手は装丁を含めて本を一つの高価な「モノ」として作り、読者はある種の調度品のようにそれを愛でる。そういう視点で、忍月は本を見ていた。
 突然このような話題から始めたのは、この『どれも特別な一日』という詩集が、本の装丁を抜きにしては語れない作品だからである。後藤グミの絵に重ねられた、金色と銀色の彩り。そもそも印刷で出すのが難しい色なのだが、触れてみるとこの2色が通常の印刷ではなく、重ね刷りになっているのが分かる。しかも特殊なインクを使っており、PP加工を施していないのに、金色や銀色が手に着かない。さらに本文の料紙も、非常に特殊なものをつかっている。指先に吸いつき、けれどもベタつかない感触。このあたりにも、こだわりが表れている。
 これらは、装丁を担当した寄頭文平と鈴木千佳子、そして担当編集者の仕事であろう。本は単に本文を書き、編集し、出版されるものではない。装丁やイラスト、デザイン、印刷、営業、販売も含めて多くの人が一冊の本に関わり、それぞれの仕事の積み重ねで作られていく。その一人一人が、最善の仕事をしようと力を注ぐ。この『どれも特別な一日』という作品は、そういう〈本を創る〉という営みを想起させる本なのである。
 
2 感触を紡ぐことば
 さて、一方で内容のほう。これは、谷郁雄という詩人を、言葉が持つ感触をとても大切にする創り手だと読んだ。感覚ではなく、感触である。
 たとえば、「深呼吸」という一篇がある。

  女子からのメールは
  女の子の匂いが
  香ってくる

  女の子の匂いといえば
  学校の
  教室を思い出す

  ある日
  女子だけの
  授業があって

  授業のあとの
  教室に
  のこのこ入ってみたら

  甘ずっぱくて
  生々しい
  匂いが残っていて

  教室を通り抜けて
  ベランダに出て
  深呼吸したのだ

 女子だけの教室に残された、空気に漂うわずかな匂い。嗅覚を頼りに、思春期の男子が抱く秘密めいた感覚が、記憶として描き出される。この詩はある種のエロティシズムの表象なのだが、けっしていやらしさがない。それは最後の連、ベランダで「深呼吸」したときの感触に拠っている。
 たとえば、『マリア様がみてる』や『けいおん!』のように、少女たちだけしか出てこないアニメーションを見ている自分(男)を想像してみよう。男にはけっして入ることが許されない禁断の空間。それは観念の上では、男にとってある種のあこがれを伴ったものであるはずだ。決して入ってはいけないのだが、傍らからぼんやりと眺め、そこにある空気を感じとるものである。
 けれども実際にその空気を吸ってしまった瞬間、その憧憬は脆くも崩れ去る。少女たちのなかに、男がたった一人で置いてけぼりにされたかのような、いたたまれない感情。その空気に耐えきれず、飛び出し、外に空気を吸い込んだときの解放感。そのとき、喉を伝ったすがすがしく冷たい空気の感触を表すのが「深呼吸」である。
 すなわちこの詩は、観念から感覚を経て生じた感情を喉の触覚という感触によって書き換え、別の感情が生み出されていく過程そのものを描いている。そのとき、言葉は単なる観念だけを届けるものではなく、語り手が身体で感じ取った感触そのものを読み手に伝えるものへと昇華される。言葉は単に意味や観念を伝えるものではなく、五感、身体に直接的に訴えかけ、読者にその感触を呼び起こさせることもできるのである。
 同じことは、「命」にも表現されている。

  押しつけられた
  と思えば
  肩がこる

  贈りものだ
  と言われたら
  くすぐったい

  拾いものなら
  気楽に一歩が
  踏み出せる

  その先に
  どんな悪路が
  待っていようとも

 この詩では、物を得るという営為が、「肩がこる」「くすぐったい」「一歩が踏み出せる」という身体の感触をともなった表現に、よりダイレクトに置き換えられる。たしかに「押しつけられた」ものというのは誰にとってもメンドクサイ。だが、タダでもらったものであれば、それを断るわけにもいかない。その難しさを「肩がこる」と表現している。
 一方で「拾いもの」は、同じようにタダで手に入れたものであっても罪悪感がない。なんだか得したような、思いがけない幸運に出会ったかのような感情が、足取りも軽くする。
 それでは、ここで「拾」われたものは何か。思わぬ「拾いもの」を店で見つけて買うこともある。もちろん、財布やお金を道で拾うこともあるだろう。けれども、「押しつけられた」「贈りもの」という前二つの連との関係から考えれば、やはり他者から与えられたものと読むべきであろう。この場合、与えられた瞬間は得をしたように思えても、後で必ずなにか見返りを要求される。すなわち、その先に待つ「悪路」とは、モノを与える側と受け取る側、双方の立場から離れ、対象化して見る、第三者的なまなざしによる表現である。
 けれどもその「悪路」は、どうもそんなに困難な道とは思えない。妙な軽さというか、温かさを伴った「悪路」だ。このことについて考えるためには、『どれも特別な一日』という詩集をめぐるもうひとつの視覚、語りのまなざしという問題を見ておく必要がある。

3 やわらかいまなざし
 ひとことで言えば、谷郁雄が紡ぐ詩の語りは、非常に「やわらかい」。この「やわらかい」という抽象的な言葉は本の帯に記されたものだが、おそらくこの言葉が、いちばんしっくりするように思える。たとえば、「敵」という詩をみてみよう。

  小さな家から
  はみ出るくらいの
  大きなのびをして
  子供は目覚める
  小さな怪物みたいに
  むっくり起き上がり
  命のエンジンを全開にする
  お母さんを悲しませる
  見えない敵に向かって
  勇敢に戦いを挑むために

 想像上の敵に向かって、男の子が戦いを挑む。小さな男の子がいる家庭なら、どこにでもありそうな光景だ。
 けれども、その光景を見るまなざしは、けっして子どもを温かく見守るだけではない。母親に目を転じ、「悲しませ」られる側にも向けられる。すなわちこの詩の語りは、世界のなかの誰かひとり、どちらか一方にまなざしが向けられるのではなく、世界を広角に、フラットに見渡し、見られる対象との距離を少しずつ計っていくことによって切り取られている。
 それでは、こういった第三者的な視点が対象を突き放したものかといえば、そうではない。対象にむかって熱く感情移入するのではなく、冷たく突き放すのでもなく、適切な距離を測って温かくみつめ、その中で日常の新しい発見を探ろうとする距離感。その、対象とのやわらかい関係が、保たれているのである。
 たとえば、表題作でもある「どれも特別な一日」も、同じ問題系にあるだろう。比較的長い詩なので後半のみを引用する。

  みなさん
  悲しいこと
  苦しいこと
  いろいろあるけど
  どれも
  特別な一日なんです

  先生の
  真剣な言葉を
  笑ったぼくら

  今
  その先生に
  謝りたい

 ここで描かれた「先生」は、詩の語り手とは明らかに異なる人種だ。相手に向かって「真剣」に言葉を向け、相手の心の中に入り込んで、なんとかして自分の思いを伝えようとする。
 けれども、そんな「どれも/特別な一日なんです」と語ったアツい先生にも、けっして正面から向き合うのではない。「笑った」、冷笑したという過去を顧み、ただ「謝りたい」のだという。けっしてその先生に、最後まで歩み寄ろうとはしないのである。
 ここでも保たれる他者へのまなざしと距離感とは、いったいどういうところに根ざしているのか。このことについて考えるためには、著者のあとがきを参照する必要があるかもしれない。

  やっと「立秋」を迎え、「暑い暑い」と連呼していた猛暑の日々も、過ぎてしまえば届かない思い出に
  変わる。そんなことをいやになるくらいくり返してきたのに、生きることがちっとも上達しない。(中
  略)グミさんのイラストに登場する「いもむし」は、旅の途中、色々な場所に出没しながら成長し、や
  がて「さなぎ」になり、最後にはアゲハ蝶じへとメタモルフォーゼする。

 この記述を読んでみると、対象にやわらかいまなざしを向けているのは、この「いもむし」ではなかったかと思えてくる。たとえば43ページに、携帯電話をひとりでいじっている男性をじっとみつめる「いもむし」がいる。この「いもむし」が持つ、他者と近づこうとして近づかない距離感。その中で、少しでも変わりたいと願いながら、やはり最後まで変わりきることのできないもどかしさ。そして、その変わらないことを、やわらかく認めていこうとする力学。これが、谷郁雄という詩人の表現した世界ではなかったか。

  神様が
  作ったものは
  時間と空間
  無限の宇宙
  の中の星たち

 巻末の「明日という言葉」に出てくるこの一節である。ここには、そんなもどかしさの中でも、「神様」が作った世界を肯定し、明日へ向かおうとするやわらかい意志が表現されている。それが、『どれも特別な一日』という詩集なのである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

大橋崇行

Author:大橋崇行
文学、ライトノベルなどなどについて、徒然にかいています。
プロフィールの詳細やコンタクトにつきましては、個人HP(→「泉月亭」)をご覧下さい。

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。