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宮崎駿『風立ちぬ』の〈現実〉

ブログを完全に放置してしまいました…申し訳ございません。

久しぶりの記事は、宮崎駿『風立ちぬ』について。
せっかく見たので、考えたところをつらつらと書いております。

例によって長いので、もし興味がありましたら続きをクリック下さい。
また、かなりのネタバレも含んでいるので、作品をご覧になったあとに読んで頂けると幸いです。

後ろのほうがやや中途半端ですが、その点はエッセイということでご容赦を(笑)
それでは、よろしくお願い申し上げます。

宮崎駿『風立ちぬ』の〈現実〉
 -内容がうすい
 宮崎駿監督作品『風立ちぬ』を観た直後、きっとこういうコメントを寄せる観客がいるのではないかと思った。実際にとある映画サイトを見たところ、いくつもそういうコメントがあがっていた。
 この「内容がうすい」という言葉は、ライトノベルや漫画、アニメの読者・視聴者がよく使うものだ。そもそも「うすい」という形容詞では、概念が漠然としすぎていてなにも語ったことにならない。その意味で「論」や「語り」としては非常に問題があるわけだが、その点はさておき、使われている用例を追っていくと、いくつかの特徴が見えてくる。何か読者に感銘を与えるようなテーマや作家が調査に基づいて書いた知識が描かれていない(対義語としての「深い」作品ではない)、ストーリーに起伏がない、会話ばかりで終わっている、どこかで見たようなありきたりの話である……などの意味で用いられるようだ。また、学生に訊いたところでは、そもそも〈物語〉を読む気がない読者が、こういう表現をするのだという。つまり、キャラクターや作品を巡る外的な要因、作品の設定などだけを読み、〈物語〉を読まない。そういう読者が「内容がうすい」という表現を使うのだという。これは読者論として、非常に興味深い指摘だ。
 私見では、この「内容がうすい」という評価は、読者・視聴者がこれまでどのような〈物語〉に接してきており、その結果、どのような〈物語〉を受容できるかという受容能力によって生じる表現だと考えている。またこの問題を、読者の〈物語リテラシー〉と称している。
 たとえば、ハリウッド映画やライトノベルのように、作り手が意識的にストーリーに起伏を作り、ここを読んでくださいという見せ場を作る。そういった〈物語〉にしか触れていない読者は、日本の純文学を読み解くことは難しい。なぜなら、たとえばいわゆる〈自然主義〉文学は、究極的に、人生の中のある一部分を「切り取る」ことを目指すからだ。そこでの〈終わり〉とは、いわゆるハッピーエンド、バッドエンドのように明確な切れ目として存在するわけではない。切り取られた時間の到達点が、そのまま〈終わり〉となる。あるいは、語り手によって語られた出来事を〈物語〉であると位置づけるのであれば、語りの〈終わり〉が〈物語〉の〈終わり〉となる。それが、純文学が〈現実〉を描くためにとってきた方法のひとつである。

 この〈物語リテラシー〉は、もっとも分かりやすいところでは、読者や視聴者がみずからの接した〈物語〉を「おもしろい」と感じられるかどうかということに結びつく。そして一般的に、〈物語〉が〈現実〉に近づけば近づくほど、読者や視聴者はより複雑なリテラシーを要求される。「おもしろい」と思うことが、難しくなる。「設定」や「既存の知識」というかたちで〈物語〉やキャラクター、いわゆる「世界観」を作り上げた〈物語〉なら、その「設定」さえ理解できれば内容の理解が伴うからだ。逆に、〈現実〉に近い〈物語〉は、その〈現実〉をめぐる様々な要素を、読者・視聴者の側でコードとして持っていなければ受容できない。さらに、〈現実〉を〈物語〉に移し変える過程で、どうしても〈現実〉をメタレベルに変換していく必要がある。これを受容できるのは、それこそ純文学をある程度読みこなせる読者である。そのため現実を描く〈物語〉はそれを読み解くことが難しく、そのリテラシーを持たない読者・視聴者には〈物語〉が「ない」ように見えてしまう。実際にはそこに〈物語〉があり、それを読み解ける読者には読み取られるのだが、そこにある〈物語〉を認知できない読者がいる。たとえばこのような〈物語リテラシー〉と作品とのズレによって、〈物語〉を読解できなかった結果として生み出されるのが、「内容がうすい」という言説だと考えられる。
 したがって、想定読者の年齢層が低いほど〈物語〉の仮構性が高く、逆に想定読者の年齢層が高くなるほど〈現実〉に近くなる。この点は、いわゆる児童文庫や、一般的なライトノベル、「メディアワークス文庫」系の作品、さらには一般文芸といった作品群ごとの差異をたどっていけば容易に見いだすことができる。また、このような在り方は、作り手による想定する読者の〈物語リテラシー〉とのすり合わせという点で、非常に合理的な選択だと言える。

 以上のような〈物語リテラシー〉という観点から考えた場合、宮崎駿はストイックなまでに、それを観客に要求しない作り手だった。このことは、たとえば『風立ちぬ』の劇場版パンフレットに掲載された記事で、鈴木敏夫プロデューサーが宮崎駿の考え方として、「アニメーション映画は子どものために作るべきで、大人物を作ってはいけない」というものを挙げているとおりだ。また、作品の完成披露記者会見で、「子供はわからなくてもわからないものに出会うことが必要」だと論じた女性プロデューサーの言葉が紹介されていたことからも窺われる。宮崎駿は、子どもでも「わかる」映画を作る。そういう考え方を強く持つ作り手だった。
 しかし、実在した人物である堀越二郎や堀辰雄を作中人物のモデルにすれば、作品はこれとは逆のベクトルを持つことになる。「設定」によって作り込まれた「ファンタジー」としてではなく、どのように〈現実〉を〈物語〉として再構成していくかという方向性を持たざるを得ない。劇場公開に先行する言説で小津安二郎監督作品と『風立ちぬ』とを比するものがあったが、映画が大衆的なエンタテインメントであり、特にアニメーションが子ども向けのものとして作られるのが一般的である日本でこういった作品を作ることは、映画というメディア、アニメーションというメディアそのものが抱える現状に対する問題提起となる。さらに言えば、このような従来の宮崎駿と逆のベクトルで作品を作りつづけてきたのが高畑勲であり、現在その方向性を持ちつつあるのが細田守である。かつて細田守を否定した宮崎駿が、細田守と同じ方向性で作品を作ったらどうなるのか。そういう作家論的な部分でも、非常に興味のある作品だと思っていた。

 さて、前置きが随分長くなってしまったので、先に結論を書く。一言で言えば宮崎駿は、そして日本のアニメーション映画は、この『風立ちぬ』という作品で非常に大きな宿題を抱えることになった。それは他でもない、アニメーションにおいてどこまで〈現実〉を描きうるのか、描くことが許されるのか、どのように〈現実〉を描けばいいのかという点である。
 以前、本ブログで『おおかみこどもの雨と雪』に関して、ヒロインである花が〈キャラクター〉から離脱し、より〈現実〉に向かおうとするベクトルを持っているという内容を書いた。これは、高畑勲の方法論でもある。作中人物を〈キャラ〉に〈現実〉の女性が持っている要素を与えてより〈現実〉に接近させることで、〈物語〉そのものをファンタジーとして保ちつつも、〈物語〉と〈現実〉との関係性そのものを描き出すことができるのである。
 しかし『風立ちぬ』では、その方法をとることができない。なぜなら、作中人物が堀越二郎であり、堀辰雄であるからだ。もちろん実在した2人と作中人物の堀越二郎とは、さまざまな点で異なってはいる。その意味で、十分にファンタジーとしても成立しうる。しかし、どんなに作中人物を作り込もうとしても、実在のモデルがある作品では、どうしても〈現実〉の影がちらついてしまう。〈物語〉が〈現実〉に引きずられてしまう。〈キャラ〉を〈現実〉に近づけること以上に、〈現実〉を〈キャラ〉に近づけることのほうが難しいのだ。
 このとき宮崎駿が採った方法は、非常に古典的なものだった。ひとつは、作中にしばしば挟み込まれる堀越二郎の「夢」である。すなわち、「夢」を物語世界で描かれる〈現実〉とまったく同じ位相で描くというモダニズム小説の方法によって、〈現実〉を切断した。これは堀辰雄という日本を代表するモダニズム作家を背負った作品である以上、ある意味において当然起こりうる事態だった。
 より大きな問題は、ヒロインである里見菜穂子の描き方にある。彼女について、作品の終わりで、黒川夫人が評する。彼女は自分の美しい部分だけを、二郎に見せたのだと。

 この黒川夫人の発言は、菜穂子自身の意志として語られている。しかし、フィクションの方法としてこの部分をとらえ、堀辰雄の作品と対置したとき、宮崎駿がここで非常に重要な改変を加えていたことが分かる。
 宮崎駿の『風立ちぬ』で用いられていた堀辰雄の「菜穂子」「風立ちぬ」「麦藁帽子」といった作品は、主人公と語りによって生み出される幻想をめぐる作品だった。たとえば堀辰雄の「風立ちぬ」は、主人公の「私」がヒロインである節子をめぐる美しい思い出を語り出すという行為が、2人が共有した壮絶な時間を、美しい思い出として変換していくという〈物語〉だった。「私」の意識によって、物語世界の〈現実〉が幻想へと昇華され、だからこそ美しい過去を語る〈物語〉となり得たメタフィクションだったのである。その意味で堀辰雄の「風立ちぬ」は、語り手にとっての「夢」と連続していた。
 しかし宮崎駿の『風立ちぬ』は、この幻想の根拠を、主人公である二郎の手にではなく、ヒロインである里見菜穂子の手に委ねてしまっている。すなわち、菜穂子が二郎の前に「美しい」姿だけを見せたことが、二郎の視点で語られる物語において、結果として彼女を「美しい」ヒロインとして構造化してしまったのである。〈現実〉の人物であったはずの二郎はヒロインの菜穂子に出会った瞬間、彼女を〈現実〉の女性として見るまなざしが剥奪されている。宮崎駿の『風立ちぬ』はその意味で、〈現実〉を生きていた主人公の二郎が、幻想の、言い換えれば〈キャラ〉としての少女である菜穂子に出会う物語なのである。語りによって〈現実〉から幻想が立ち上がっていくメタフィクションではなく、あくまでファンタジーとして緻密に作り上げられたフィクションなのだ。

 そしておそらく、『風立ちぬ』における宮崎駿の苦闘は、語り手の「夢」が現実と同じ位相で描かれるというモダニズム的手法と、あらかじめ幻想としての〈キャラ〉である菜穂子が〈物語〉に与えられていることとが共存してしまっているという点に集約されている。
 モダニズムの手法とその後継となる作品群は、いかにして〈現実〉を描くかという問題意識のもとで作り出された、いわば二十世紀文学の発見である。あくまで語り手にとっての〈現実〉を描きながら、その中でなお幻想を立ち上げることができる。しかし宮崎駿は、ヒロインと主人公との関係という作品においてもっとも重要な部分で、このような〈現実〉の描き方を回避してしまった。菜穂子をあくまで幻想の人物として描き、〈現実〉としての余地を与えなかったのである。これはいわば、里見菜穂子を〈現実〉の人物として描くことそのものを放棄したことにほかならない。
 このような改変は宮崎駿にとって、「アニメーション映画は子どものために作るべき」だという方向性に基づく判断だった可能性もある。また、ヒロインの菜穂子という存在は、アニメーションがあくまで幻想のなかで〈物語〉を紡ぐものだという一線を死守していたかのようにも見える。だが一方で宮崎駿の『風立ちぬ』は、アニメーションというメディアにおいて〈現実〉を描くことの困難さを浮き彫りにしてしまった。あえて小津安二郎の名前を引き合いに出すのであれば、アニメーションでは小津安二郎作品を作ることはできない、アニメーションで〈現実〉を描ききることはできないというのが、宮崎駿の出した現段階での答えだったのである。
 もちろん、〈現実〉を描くことが文化としてより高次だとか、幻想を描くことがそうではないとか、そういうことを述べているわけではない。〈現実〉と幻想とをどのような位相で描くかという、いわば作り手にとっての選択の問題である。しかし『風立ちぬ』が結局〈現実〉に徹することができなかったという事態は、日本のアニメーションというメディアにおける表現の幅が、特に作り手の側にとって、いまだに強固な規制の下にあることを示している。宮崎駿による改変が意識的であれ、無意識的であれ、アニメーションが〈現実〉を描くということに対して持っている立ち位置を、『風立ちぬ』は明確にしてしまったのである。

 アニメーションはあくまでファンタジックであるべきだという立場はあるだろう。そういう部分でこそ、アニメーションというメディアの特性を活かすことも可能である。また、日本のアニメーションはその領域にあったからこそ、成長してきたという側面は否めない。しかし、〈物語リテラシー〉の問題に照らせば、成熟するにしたがって作品がより〈現実〉に接近していくというのが、基本的な〈物語〉メディアの特性である。小説であれ、漫画であれ、読者が増えるにしたがってより複雑な〈物語リテラシー〉を必要とする作品が要求されるようになり、より〈現実〉に近い作品が生み出されてきた。その意味でこれまでの日本のアニメーションは、〈現実〉への接近を要求されにくい、特殊なメディアだったと言える。
 しかし『風立ちぬ』は、「ファンタジーを簡単に作れない時代が来ている」(前掲、映画完成記者会見での宮崎駿の発言)という、明確な問題意識のもとで作られた作品であることは注意が必要であろう。それは、細田守が『おおかみこどもの雨と雪』で、ヒロインの花を描くことで示したものでもある。その意味で、〈現実〉を描かないことを前提としてきたアニメーションに、明らかな転機が訪れているのだ。
 このような状況において、『風立ちぬ』で宮崎駿が見せた苦闘は、観客と視聴者が持つ〈物語リテラシー〉の変容と、アニメーションというメディアがその変化に今後どのように対応していくべきかという問題について、その変化の過程のなかで示したひとつの実験的なあり方だったといえる。その意味で、今後の日本のアニメーションがどうあるべきかが真に問われるのは、『風立ちぬ』の次の作品だと言えるだろう。おそらくそこに、宮崎駿の本当の集大成がある。
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No title

笠間書院のツイートからお邪魔し、興味深く拝読いたしました。
昨日『風立ちぬ』を観てきた者です。
恥ずかしながら、様々なエピソードを2時間強に圧縮し、回収しきらないまま終わってしまったことに、実在の人物の物語だからと思いつつも、煮え切らなさ、物足りなさを思ってしまっていた一人です。
もう一度観たらまた違う感想を持つのだろうとも思いながら、映画館を出てきました。

あと、すみません。
堀越二郎は「ほりこし・じろう」だと思うのですが、文中の「越二郎」がどうも気になりました。
意図的なものでしたら、失礼しました。

コメントありがとうございます。
詰め込み過ぎの感じはどうしてもありますよね…
ストーリーの起伏なども含め、他にもいろいろツッコミどころが。
それから、名前の件ありがとうございます(焦)
堀辰雄と書き分けるために自分のPCの辞書を変に登録してしまっていたのを完全に見落としていました。
申し訳ありません。訂正させていただきます
プロフィール

大橋崇行

Author:大橋崇行
文学、ライトノベルなどなどについて、徒然にかいています。
プロフィールの詳細やコンタクトにつきましては、個人HP(→「泉月亭」)をご覧下さい。

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